あまり理解されないが、出不精。

会合は苦手。

パーティーの企画も運営も大得意だが

自分がなにかに参加することは少ない。

ママ友というのも特になかったので

お友達とランチというのもない。

そんな私が、最近、極々まれに出かけた先々で、

バタバタと会いたかった人や、

懐かしい人たちにたてつづけに会った。

ありえない。偶然としてはこわいほどの確率。

非科学的で恥ずかしいが引き寄せたり、

引き寄せられたようにさえ思う。

同じように、このトンネルは抜けないのではないか、

この夜は明けないのではないかと思うことにも

ある日突然、陽がさす。

必要な時間、というのが何にでもある。

必然ということはきっとある。

撒かない種は絶対に生えない。

とはいえ

撒いた種は必ず生えるとは限らない。

生えた種が育つとも限らないが、

育つべき種はしっかり育つ。

 

当たり前のことが急に見えてきた。

 

 

初めて訪ねた写真のsabitaは、

これからひっそり隠れ家にしようと思っていたら、

ご挨拶されたオーナーは30年前のお知り合いだった。

そのときの種が今頃芽をだすのか。

長い休眠には必ず意味がある。

農学部出身の私にはよくわかる。

トシをとるということは実にすばらしい。

それが分からず、生意気なことを言い、

老体を「劣化」とはやし立て、

大人の意見を「老害」とひとくくりにする若者たちがいるとしたら、なんと気の毒なことか。

 

老いた先輩から学ぶが勝ちーそう思う若者がいるなら

必死に応援しようと思う。

 

 

食文化再研究スタート

食文化の国際的な比較研究など山ほどある。

そこにあえて挑もうと考えている。

この1年の間にポーランド、チェコ、中国の大学で

日本の食卓文化と美学について講義をする機会を得たことが

原動力になった。

それぞれの土地の料理と食卓、生活文化に私自身も大きな刺激を受けもした。

研究の第一歩は文献探し。

ありそうなのに、論文となると私が探すものはなかなみつからない。

やっと一本の論文・・のような研究ノートを見つけたのだが

その内容の不正確さに愕然とした。

ある大学の留学生が書いたものだが、指導したと思われる教授の名が共著として記されている。

あきらかにこの教授は彼が書いた文章を読んでいないことがわかる。ひどい。

そしてそんな未熟な文章を活字にして載せた雑誌もわるい。

だがそんなことに憤っていているヒマはない。

私自身が持っている山積みの書籍やこれから出会う文献を丁寧に紐解き、既存の情報を整理してみようと思う。

クリスマスを完全に日本の行事に取り込んだ日本の、この柔軟性はどこからきたのか。

魏志倭人伝には、倭の人たちが長寿であると記されていて驚いた。

何をどう食べていたのだろうか。

ミステリーをたどる日々がスタートした。

改めて確認したことや、新しい発見はこの欄に綴っていこうと思う。

札幌は本格的な雪。春までになにかが見えたら嬉しい。

写真は去年のクリスマスレッスン。さて今年はどうしよう・・・。

 

 

懐石と懐石料理

大学の食生活論も後半に入った。

食文化の領域、室町のあたりで今年も力が入ってしまった。

懐石と懐石料理は違う。

一服のお茶の前に、

ほんの少し小腹を満たしていただく小さな食事が懐石。

懐石料理とは言わない。

ほんの少しのごはんから始まり、

途中でお酒は出たとしても酒宴ではない。

お茶までの静かな流れでしかない。

懐石とはそういうものだから、

わざわざ「茶懐石」というのも不自然。

くどいようだが、懐石は「茶」に決まっている。

いつからどうして

お茶席の食事を懐石料理とか茶懐石と言うようになったのだろうか。

 

義母は懐石を研究し、長く教えていたのだから

その混同の歴史を聞いておけばよかった。

彼女は「お懐石」としか言わなかった。

正しい。

 

かいせきりょうり、には、懐石料理と会席料理がある。

現在これはどちらも酒宴。

最初から酒の肴になる料理が続き、最後に〆のごはんが出る。

器選びや素材、演出、価格に違いはあるようだが

作る側に任された判断のようだ。

この混同はよいとして、茶席と酒席の混同は問題だろう。

私は茶道から遠ざかって久しい。

理由はいろいろあるが、

武家社会の男性のたしなみが

近代化とともに女性のたしなみになったプロセスのほうに

興味があるからでもあるし、

中国から来た嗜好品である茶を、

独自の文化に仕立て上げたその原動力にも大きな興味がある。

学生たちにも、そのあたりを考えてみてほしいのだが、

期待のしすぎだろうか。

 

 

 

 

ローリングストーン・転がる石

突然の方丈記。

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例しなしー。

 

すべては移り変わるのよ、はかないのよ・・・という無常観や、わび、さび と解釈する向きもあろうが、私はそうではないと思う。

 

西洋には

A rolling stone has no moss.という諺がある。

hasがgathers のこともあるが、コロコロころがる石には苔が生えないということだ。

方丈記とこの転がる石<ローリングストーン>が私の中ではいつも重なる。

A rolling stone has no moss には転がってばかりいてはなんの利益もホンモノも手に入れられないから、おちつきなさいよという戒めとしての解釈もあれば、

常に転がって動いていれば、新しい刺激を得て、いつもワクワク生きていける・・という解釈もある。前者はイギリス、後者はアメリカ風の解釈だというのは言い得て妙である。

方丈記の「もとの水にあらず」というフレーズは、いつも私を激励する言葉だったし、これからもそうだと思う。

明日のすべては昨日と違うんだから・・・そう思って今まで生きて来た。

よくてもわるくてもローリングストーン、転がる石でありたい。

転がる石でなければ、文化など守れないし育めない。

音楽も美術も祭りも、その歴史の流れを守りながら未来へ継承し、転がっていればこそ、新しいモノを生む原動力を生み、発見もあろうというものだ。

とはいえ、苔は美しい。

苔むすことの美学はたしかにある。

老いたからこそ見えるものがあまりにも多い昨今、

シワも白髪もなんだか愛しい・・・・

加齢も老化もうけとめながら、それなりに転がり続けることができればいいな、と思う日曜の朝である・・・・。

 

あら、どうしたワタシ?!採点作業で疲れたか。

 

何気取ってんのかしら、恥ずかしい!

シワも白髪も大問題なんですから!

さ、グズグズ言わずに

陣中見舞いの美味しそうなパンをいただくことにします。

 

よい一週間でありますように!

 

 

 

 

 

routine

ルーチン。

 

きまりきった仕事、作業。

 

これが実に大切なのだと思う。

どれほどたくさん持つか、これも大切なのだと昨今思う。

同じ時間に起きる。

新聞を取りに行く。

ごはんのあとお茶を入れる。

犬の散歩も、決まって見るテレビも。

 

行事とて同じ。

同じ時期に飾る。同じ日に食べる。

片付けるのが大変なのは当然、準備も煩雑。

だがルーチンワークは日々の暮らしにメリとハリをつけてくれる。

 

毎朝新聞をとりに玄関まで階段を降りていた母がさぼるようになった。

連日デイサービスなどで出かける母は、その用意に手間取り、

新聞どころではなくなったようだが、これはまずい。

 

ママ、新聞わすれてる!と鬼の娘は93歳を今朝も叱る。

がんばれ、ママ!と思うのだ。

やらなければならないことが減る・・・これは大問題。

 

ああ面倒だ

一度くらい休もうか・・

 

これは老化の大敵、怠惰菌という体内で急速に広がる細菌のようなもの。

あっという間に心身に広がる。

 

ルーチンは多いほうがよい。

オルニチンもアルギニンも大切だが

ルーチンは無料で一番カラダにいいかもしれない。

 

今年は早めにツリーを飾った。

 

毎週金曜日、最悪土曜の朝までに写真といっしょに

送信しなければならない函館新聞の連載「暮らしのパレット」も

今朝一番に送った。

 

決まり事をしただけなのに、気持ちがよい。

ルーチンは妙薬だとしみじみ思う。

追伸

今朝の怠惰な犬

ルーチンがないとこうなります。